新古今の周辺(18)鴨長明(18)登蓮法師(2)私は三代目の弟子

登蓮法師が日頃関心を抱いていた「ますほのすすき」に対する疑問を明らかにするために、雨の中を摂津の渡辺に住む聖を尋ねた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20150601)後日談を鴨長明は『無名抄』で次のように記している。

「無名抄 16 ますほのすすき」後半

「このことを、私は登蓮法師を渡辺の聖の一代目と数えて三代目の弟子として伝えられ学んでいます。このすすきは同じように見えていくつかあり、ますほのすすき、まそをのすすき、まそうのすすきと、三種(みくさ)あります。

ますほのすすきというのは、穂が長くて一尺ほどあるものをいい、かの、ます鏡(※1)のことを万葉集(※2)で十寸の鏡(※3)と書いていることを知っておくべきです。

まそをのすすきというのは、真麻(※4)のことです。これは源俊頼朝臣の歌(※5)にも詠われています。「まそをの糸を繰りかけて」とあるようですが。糸などが乱れたような様子をしたすすきのことです。

まそうのすすきとは「まことに蘇芳(※6)の色である」という意味で、真蘇芳(ますおう)のすすきというべきところの言葉を略したものです。色の濃いすすきの名前です。

これは古い歌集などに確かにみられるという事ではないが、和歌のしきたりとしてこうした古い言葉を用いるのはよくあることです。

これらのことは、多くの人が知っているわけではなく、みだりに伝えることでもないのです」

以上から推し量ると、みだりに人に伝えるべきではないとされる「ますほのすすき」について、長明は登蓮法師から数えて三代目の弟子として伝授されたこと、また、当時は和歌において「秘伝」として伝授する仕組みが存在していた事がわかる。

さて、この「ますほのすすき」に関する秘伝を登蓮法師から伝えられて長明に授けたのは誰であろうか。登蓮法師が俊恵の「歌林苑」に出入りしていた歌人であった事から、二代目の弟子として伝え聞いた俊恵が若き愛弟子の長明に伝えたものと思われる。

登蓮法師と長明の年代を考えれば、俊恵の歌林苑で二人が直接顔を合わせる機会はなかったと思われるので、俊恵からこの事を伝え聞かされた数寄者を自認する長明にとって、登蓮法師は忘れがたい存在になっていたのであろう。

さて、ここで、新古今和歌集に1首入集した登蓮法師の歌を揚げておきたい。

巻第九 離別歌           登蓮法師
882 帰りこむ ほどをや人に 契らまし しのばれぬべき わが身なりせば
【現代語訳:もし、わたしが人に思い出されるような者だったら、帰ってくる時を言って再会を約しもしましようが・・・・わたしはそれほど人になつかしく思い出されるような人間とは思われません。】

本当は忘れて欲しくないのに、本音を隠して何とも切ない歌であります。世を捨てた隠遁歌人であるはずなのに、人から忘れられる事の辛さがしみじみと伝わってくる。

(※1)ます鏡:真澄の鏡の略で少しの曇りもなく澄んでいる鏡のこと。

(※2)万葉集:二十巻からなり、巻一、巻二は早く成っていたが、完成は八世紀末。増補・編纂には大伴家持が深くかかわった。藤原清輔ら六条家歌人だけでなく藤原俊成・定家ら御子左家の歌人も深い関心を寄せていた。

(※3)十寸の鏡:現存伝本の万葉集には見られない。

(※4)真麻:イラクサ科の多年草の苧(からむし)。茎の繊維は織物の材料になる。

(※5)源俊頼朝臣の歌:堀川百首の「薄」の題で源俊頼が「花すすき まそほの糸を繰りかけて 絶えずも人をまねきつるかな」

(※6蘇芳(すおう):紫がかった紅色

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社