新古今の周辺(14)鴨長明(14)歌こそ命!で90歳の長寿

鴨長明は『無名抄』で「歌こそ命!」と全身全霊を歌に注いで90歳まで生きた老法師のありさまを「63 道因歌に志深きこと」で次のように活写している。

「歌道への志の深さにおいては道因入道(※1)に並ぶ者はいません。入道は70〜80歳になるまでは「どうか良い歌を詠ませてください」と毎月都から摂津の住吉神社(※2)まで歩いて祈願のお参りをしていた事からも歌への執心が半端ではなかったことを示しています。

ある歌合で判者を勤めた藤原清輔が道因の歌を負けと判定した時に、わざわざ清輔の屋敷に出向いて涙を流しながら恨み言を述べた時など、会の主催者であった亭主は何とも言いようがなく「あれ程の大事に遭うとは思いもよりませんでした」と後で語っていました。

その道因が90歳になったころは耳も遠くなり、歌合の席で人を掻き分けて講師(※3)の脇にぴったり身を寄せて、老い屈んだ姿で一心に聞き入る様子はとてもいい加減な事とは思われませんでした。

千載集(※4)」に道因の歌が選ばれたのは彼が亡くなった後であったが、それでも生前の彼の歌への志を斟酌した撰者の藤原俊成が初め18首を採用したのであったが、撰者の夢の中に道因が現れてはらはらと涙を流しつつ喜んだということで、心を動かされてさらに2首を追加して合わせて20首が選ばれることになった。それも当然の事です」

翻って長明は「千載集」に一句選ばれただけでも有頂天になった心境を同じ『無名抄』の「12 千載集に予一首入るを喜ぶこと」で吐露していたが、この事は、当時の歌を志す者にとって「千載集」「新古今和歌集」などの勅撰集に自分の歌が採用されることが何よりの生き甲斐であったことを示しており、今更に人間の「承認欲求」が如何に根強いものであるかを考えさせられる。

さらに道因入道にとって喜ばしいことは『新古今和歌集』に次の4首が採用された事である。

巻第四 秋歌上 題しらず
414 山の端(は)に 雲のよこぎる 宵(よひ)のまは 出でても月ぞ なお待たれける
【現代語訳:山の端に雲が横切って流れる宵の内は 月が出たあとでもやはりつい心待ちされてしまうよ】

巻第六 冬 歌   題しらず
586 晴れ曇り しぐれは定め なきものを ふりはてぬるは 我が身なりけり
【現代語訳:】晴れたり曇ったりして、しぐれは定まらないものなのに、ただひたすら老い古びてしまったのはわが身だなあ。

巻第九 離別歌 遠き所にまかりける時、 師光(※5)餞し侍りけるに
888 帰りこむ ほどを契らむと 思へども 老いぬる身こそ 定めがたけれ
【現代語訳:ほんの一時的な旅の別れと思ってこらえているけれど 年をとると涙もろくなって、人との別れはもとより、涙もとどめることができないよ。】
(道因入道が77歳の時に詠んだ歌なのでずしりと実感が伝わってくる)

巻第十二 恋歌二      入道前関白太政大臣家歌合に 恋の涙の歌
1123 くれなゐに 涙の色の なりゆくを いくしほまでと 君に問はばや
【現代語訳:】涙の色はこのように紅になりました。いったい幾回までさらに色濃く染めたらいいのか、あなたにお聞きしたいものです。
なお、いくしほとは幾入(いくしほ)で、染料に浸すことを「入(しお)」といい、「くれなゐ」の縁語。

道因入道にとって正に「歌こそ命!」であった。そして、当時としては驚異的な90歳の長寿を全うしたのだから見事な生き方といえるのではないか。

(※1)道因入道(だういんにゅうどう):寛治4年(1090)〜没年未詳。一説に寛治3年生まれとする。治承3年(1179)には90歳で生存。寿永元年(1192)頃までには没。俗名は藤原敦頼。右馬助従五位上

(※2)住吉神社大阪市住吉区住吉にある元官幣神社。摂津一の宮

(※3)講師(こうじ):歌合の席で参加者の歌を詠みあげて披露する役。

(※4)千載集(せんざいしゅう):『千載和歌集』。後白河法皇の命で藤原俊成が撰集した勅撰和歌集で文治3年(1187)に完成。20巻、約1200首を収める。

(※5)師光(もろみつ):源師光村上源氏。生没年未詳だが天承元年(1131)頃の生まれか。建仁元年(1201)には71歳で生存。具親、宮内卿の父。右京権大夫正五位下法名は生蓮。『新古今和歌集』に3首入集。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社