新古今の周辺(5)鴨長明(5) 師・俊恵(1)師弟の契りにあたっ

『無名抄』の「俊恵(※1)に和歌の師弟の契り結び侍りし初めの言葉にいはく」で始まる「50 歌人は証得すべからざること」を読むと、長明が俊恵から歌の手ほどきを受けるにあたって、

「歌という物はこのうえなく昔からの心得のうえになりたっているので、私を本当の師と頼むのであればまずこの点をまちがえないようにしてもらいたい。

あなたはいずれ、必ず歌人として名を成す人であるうえに、私と師弟の契りを結ばれるのであるから申しておきますが、将来ひとかどの歌詠みになったとしても、わかったような気になって、我こそは歌の上手と思いあがった気持ちで歌を詠むようなことは絶対絶対、ゆめゆめなさるな」と、

強く釘を刺されていた事がわかる。

そのうえ俊恵は、かつて近しかった後徳大寺大臣藤原実定(※2)を引き合いにして、

「もし後徳大寺大臣が『前(さき)の大納言』と呼ばれていた若い頃のように、人よりも劣った歌を恥として歌に磨きかけ続けていたなら、今でも並ぶ者のない歌人でいたであろうが、今は「歌を極めた」との慢心があるからか手練れの歌人として知られるが、歌に少しも心がこもらず、あまり感心しない言葉などを読み込んでいるのでどうしても秀歌が生まれない。

秀歌が生まれなければ声もかからず歌合に呼ばれることもない。歌合で詠む歌は、その場での人柄の良し悪しで決まることもあるが、一夜明けて静かに読み返した時に風情がこもり歌の姿を素直と感じる事もある。

ここで自分を引き合いに出すのはおこがましいが、俊恵は今も初心を忘れず歌に向かい、自分の思いは二の次にして多少訝しく思っても人が褒めたり批判したりすることを取り入れてきた。これは先人から受け継いだ教えです。

これらを常に保ってきたおかげで、さすがに老いてはきたものの、この俊恵を歌詠みとしてなっていない、と謗(そし)る者がいないのはこのことを守ってきたからにほかなりません」

この時の長明は30歳頃と思われ、高松院の菊合わせに呼ばれたり、『鴨長明集』を世にだして(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20141101)、ひとかどの歌人と知られ始めていた事で、天狗になっていた兆候を俊恵が読み取っていたのではないか。


(※1)俊恵(しゅんえ):永久元年(1113)生まれ、没年未詳。後鳥羽院藤原俊成から高く評価された歌人の源俊籟の息子。東大寺の僧で公名(きみな:寺院で弟子となった公卿・殿上人の子弟を呼ぶ名)は大夫公。京の白河の房を歌林苑(かりんえん)と称し、多くの歌人の集会所とした。鴨長明の師。中古六歌仙のひとり。百人一首歌人

(※2)藤原実定(ふじわらのさねさだ):保延5年(1139)〜建久2年(1191)、享年53歳。母が藤原俊忠の娘・豪子で藤原俊成の姉妹。大納言・左大将・右大臣を経て正二位左大臣に至る。祖父の実能を徳大寺左大臣と呼んだことと区別して後徳大寺左大臣と呼ばれた。百人一首歌人。千載集初出。


参考文献:『無名抄:現代語訳付き』 鴨長明 久保田淳(訳注) 角川ソフィア文庫