鴨長明の父・長継に関する記述は、悪左府として名を残した左大臣藤原頼長の日記『台記』(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130908)の久寿2年(1155)の4月20日付に見られ、この日頼長が下鴨神社に参拝して神官たちに迎えられたが、この時の禰宜の長継は重病によって不参で、その代役を河合社禰宜の鴨祐季が勤めたと記している。
奇しくもこの年に長明は長継が17歳の時の次男として誕生しているが、その前年の10月に後白河天皇が践祚し2歳の時に保元の乱が勃発している。
当時の下鴨神社【賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)】は山城国の一の宮として、王城鎮護の神として朝廷から重んじられ、上賀茂神社【賀茂別雷神社(わけいかずちじんじゃ)】と催す例祭・賀茂祭(昔は陰暦4月の中の酉の日、現在は5月15日)では、斎王代・勅使らが行列して御所から下鴨・上賀茂を廻り、王城の地・京を象徴する祭として親しまれ今は葵祭りとして名高い。
特筆すべき事は、下鴨神社の23ケ国に亘る約70荘もの社領から上がる莫大な権益で、正禰宜惣官としてこれを掌握していた長継は、二条天皇中宮(鳥羽上皇の皇女で美福門院を母とする)妹子内親王(後の高松院)への貢進(※1)によって、中宮の叙爵で7歳の長明が従5位下に叙せられる見返りを受けている。
しかし長継の行為は当時の一般的な風潮で、下級貴族であった受領が任地から絞り上げた豊富な財力を上皇に貢納(※2)あるいは成功(※3)して彼らの経済基盤を支え、その見返りに官位を獲得して「院近臣」を形成し、摂関家を脅かす新興勢力として政治の表舞台に登場したのが院政期の特質であった。
このように長明の幼少時は乳母日傘の豊かな環境であったが、18歳の時に父が病死して正禰宜の家職が長継の又従妹の鴨祐季の系統に継がれた事から自らを「みなしご」と称する境遇を余儀なくされる。
ところで長明の歌人としての素質は父の影響によるものと思われ、長継は「晴れの歌を人に見せ合すべきこと」(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20141015)で長明にアドバイスを与えた勝命入道と小歌壇を形成していたとされる。
その勝命入道は、当時宮廷歌壇で主流になりつつあった藤原俊成・定家父子の御子左家に対抗する六条藤家の流れを汲む歌人で、勝命法師(しょうみやうほふし)の名で、
「新古今和歌集 巻第一 春歌上 67」に下記の一首が入集している。
雨降れば、小田(をだ)のますらを いとまあれや なはしろ水を 空にまかせて
(※1)貢進(こうしん):みつぎものをたてまつること。
(※2)貢納(こうのう):みつぎものをおさめること。
(※3)成功(じょうごう);平安時代以後、資材を朝廷に献じて造営・大礼などの費用を助けた者が任官・叙位されたこと。売官のひとつ。