陶芸セラピ、84歳の女流ピアニスト


1) スケッチブックから〜陶芸セラピ   

古いスケッチブックには陶芸教室に通っていた頃に描いた手順のイラストが幾つかある。





40代に少人数の中高年だけの「余剰人員部屋」に配属された事があり、私は給料さえもらえれば時には「遊軍」もよいかと構えていたのだが、超一流大卒の男性はそうではなかった。望むべき自分のポジションと現実との間で高いプライドを持て余しているからか、何かにつけて「あなたは手足だが私は価値を生む頭脳労働を担っている」と、露骨に言葉で優越感を誇示する。

勝気な私は向きになって反発していたが、やがてイライラが募って不眠症に陥り、さらに顔面の左上部が痙攣するに至って、このままでは神経がおかしくなってしまうと、新聞の折込チラシをみて陶芸教室に毎週土曜の午後に通い始めた。

初めての陶芸だったが、土弄りがあんなに力を必要とするとは思わなかった。固い土を好みの型にするには相当力を込めて柔らかくするしかなく、腕が痛くなるほど一心不乱に土をこねた。

この教室では、手回し轆轤の上で柔らかくなった土を紐状にして次々に重ねて型を作り、好みの釉や色を塗って乾かすと、先生が大きな電気式釜で焼いてくれた。思った通りの仕上がりになるかいつもドキドキしたものだった。下図写真は作品たち(製作順)。

(お揃いの煮物鉢と小皿)

(蓋と重石付き浅漬セット)

     

(大・小の片口セット)

教室に通い始めて3カ月が過ぎた頃には、あれほどキリキリ思い詰めていたことがアホらしく思えるようになり陶芸教室とオサラバしたのだが、その1ヶ月後に私は他部に異動になった。


2) 閑話〜アメリカ南部(2)

(1)熱狂のジャズ・フェス

1981年のGWにジャス・フェスティバルたけなわのニューオリンズを旅する経緯は既に述べたが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako+kankyo/20120320/1332249023)、フレンチクオーターのスペイン風ホテルに到着して一休みしていると、まだ日の落ちないうちから、ドアを開け放したライブハウス(狭い街にひしめいている)や、ストリートミュージシャンの奏でる音が重なり合い、それに誘われるように人々が街頭に繰り出してくる。何しろ全米のみならず世界中のジャズ・ファンが集まるから、人数と云い密度と云い半端ではない。

そんな大群衆に友人と私も連なり、あちこちのライブハウスを覗いては気に入った店でアルコールと共にひと時を過ごし、そして次の店へとラリーをつづけて、ホテルに戻るのは夜が更けてから。

別に大物ミュージシャンが勢揃いする数々の目玉イベントに足を運ばなくても、日の明るいうちはミシシッピーリバー・クルーズやルイ・アームストロング・パークの散策を楽しみ、日が暮れると狭いフレンチ・クオーターを練り歩くだけでジャズ・フェスを十分楽しめた。まあ、これが5日も続くと確実にアル中ですが。

(2)「スウィートエマ」〜84歳の女流ピアニスト

入場料1ドルで知られたプリザベーションホールはフレンチ・クオーターの中心に位置し、主にデキシーランド・ジャズで知る人ぞ知るライブハウスであった。人気が高いので入場券を確保するために早々と並び、席を確保してホッとした気分で周囲を見回すと日本人は私たちと中年のカップルの二組だけだった。

驚いたのはミュージシャンが殆ど60代から70代で占められ、唯一の若者は40代後半と思しきリーダーだけ。バンジョー、トランペット、サックス、ドラムから構成される伝統的なデキシーランド・ジャズは泥臭いけれどもどこか懐かしい気分にさせてくれた。

特に印象に残ったのはプリント模様の裾の長いワンピースをふんわり着こなした70代と思しき女流ピアニストだ。彼女の枯れ枝のような指から流れる音色は、情感たっぷりのうたうようなブルースだった。彼女の名は「スウィート・エマ」。

これを書くためにhttp://en.wikipedia.org/wiki/Sweet_Emma_Barrettでチェックしたところ、彼女は1897年3月25日生まれ、という事は1981年4月末に私が出会った時点で84歳だった。彼女は独学でピアノを習得し、プリザベーションホールを拠点に活躍して、晩年は脳卒中による左半身マヒで演奏機会は減るものの1983年に85歳で亡くなるまで演奏しつづけたとある。

偉大なジャズピアニスト「スウィート・エマ」に30年遅れの哀悼の意を!!!

ところで、長い間1ドルの入場料を維持していたプリザベーションホールは2008年時点で10ドルとなっているそうだが、それでも中身の濃さを考えると割安だ。