秋山先生と線描画、尋問か入国審査か?


1) スケッチブックから〜秋山先生と線描画

 黄ばんでしみだらけの古いスケッチブックの中に「74 9/21」と記した長崎の風景を描いた線描画が3枚ある。長崎は尾道と並んで坂道の多い港町だが、唐風の墓地や南国の植物が異国情緒を醸し、思わず描きたくなる風景があちこちにあった。


(坂道)





(墓地)




(ホタル茶屋近くの墓地)


 私の小学校5年と6年の「図工」担当は、平べったい大きな顔と厚い唇の秋山先生だった。彼はベレー帽に絵具だらけの白衣を着て、親指を突き出す派手な身振りで廊下を闊歩するのが特徴だったが、何故か私はその先生のお気に入りで、5年の時は皆がクレパスで描いている時に私にだけ絵具で描かせ、6年で皆が絵具で描いている時には竹ペンと墨汁で線描画を描くように勧めてくれた。

今でも思い出すのは、校外写生の時、古風なレンガ造りの地方銀行支店を題材にして、竹ペンに墨汁で一つ一つのレンガを描き込んだ作品に仕上げて秋山先生から褒められたことだ。

あのころは戦後民主主義の昂揚感に包まれて教師も生徒もノビノビとおおらかだった。

2) 閑話〜アメリカ南部(1)

(1) 尋問か入国審査か?

1981年の4月末、私はアトランタ空港の入国審査で立ちつくしていた。入国目的を「観光」と何度繰り返しても、審査官はナッシュビルニューオリンズ→ボストンの旅程表と滞在ホテルリストに何度も目をやりながら疑い深い目でこちらを見る。隣を見ると友人も同じ状況だった。

その理由らしきものが判明したのは帰国後に溜まった新聞に目を通した時で、当時タイ航空の乗務員が麻薬の運び屋として度々摘発され、当局は水際で厳く監視していたのだ。

あのこ頃は、アメリカ旅行をする日本人の大半が、日本航空や欧米の航空会社を利用して西海岸、ニューヨーク、ボストンに向かう中で、タイ航空を利用して、いきなり南部のナッシュビルや、ジャス・フェスティバル真っ盛りのニューオリンズを目指したものだから、麻薬の運び屋の片棒を担がされている可能性を疑われたのではと思っている。


(2) ナッシュビルのおもてなし

友人と私は「welcome to music city」の横断幕を掲げたナッシュビル空港の到着ロビーをそそくさと過ぎて、長旅と入国審査尋問の疲れを癒すために投宿ホテルに荷物を投げ込んで近くのラジソン・ホテルのバーに向かった。

そこでは大きなカウンターを囲むように、ベージュやブルーのスーツを纏ったビジネスパーソン達が歓談していた。どうやらここはYUPPIE(young urban professionals:大都市に住む知的職業に携わる裕福な若者たち)の溜まり場のようだった。

シワシワの旅行着の私たちはそこに入るのを一瞬ためらったが、ともかく空いているスツールに身を滑らせてドリンクを注文した。キラキラした瞳の30代前半と思しき黒人女性のバーテンダーは、軽くウィンクをしながら私たちの前にドリンクを並べ、自らの奢りで東洋の女たちを歓迎してくれたのだった。