古希祝いの花篭、西海岸点描(1)


1) スケッチブックから〜古希祝いの花篭

 デッサンのレッスンに2年通ったが花を描く事はなかった。繊細で柔らかなタッチはどうも苦手で、花を描くのはもう少ししてからと周囲を煙に巻いていたのだが、先日の私の古稀をネタにしたささやかな宴で、仲間の一人から「お祝いです」と紫をあしらった華やかな花篭を差し出されたことからそうもいかなくなった。

 ありがたく頂戴して部屋に飾って愛でていたところ「これほど見事な花に出会うことは滅多にないのだから花を描くのは今でしょ!!」との内なる声に急かされて、慌てて伊東屋で不足している絵具を買い求めて描いてみた。題材と作品のツーショットで披露。
 


次の「残り花1」と「残り花2」は、まだ飾れるピンクの花を白地に藍模様の花瓶に、二つの蕾を色絵の鍋島焼デミタスカップに挿して描いてみた。

残り花1


残り花2


2) 西海岸点描(1)

1970年後半から1980年代にかけての「西海岸」と云えばサンフランシスコとロスアンゼルスに決まっていて、当時の日本ではビーチ・ボーイズやドゥビー・ブラザーズなどのwest coast music が巷に溢れ、特にイーグルスの「Hotel California」は大ヒットを飛ばしていた。

そんな西海岸ブームの最中に私たちが1977年の年末年始に初めての海外旅行にサンフランシスコとロスアンゼルスを選んだのは当然の成り行きであった。1977年末のドル・円レートは240円辺りで、年初の292円辺りから50円以上も円高が進んだことも引き金になった。

(1) ケーブル・カーのサンフランシスコ

 私にとって初めての外国の地サンフランシスコ体験は、空港のトイレにギョッとし(http://d.hatena.ne.jp/K-sako+kankyo/20120411/1334109897)、フィッシャーマンズ・ワーフで「うっ」とする(http://d.hatena.ne.jp/K-sako+kankyo/20120421/1335009286)事から始まったが、宿泊ホテルの前がケーブル・カーの停留所であった事から味わいのあるものとなった。

 ホテルを出て到着したケーブル・カーに目的もなくヒョイと乗り、デッキから坂道の多い街並を眺めるだけでも十分だが、急勾配の傾斜地に張り付くように建てられた、同じ家の中でも入口と奥まった辺りの高低差がかなりある建物は、一体どういう造りになっているのかとしげしげと眺めたものだった。

 また、小高い丘でケーブル・カーを降りて芝生に腰を下ろし、眼下の街並や群青のシスコ湾、シルバーグレーに煌めくエレガントなベイブリッジを眺めながらぼーっと過ごしたりする、たったそれだけで不思議と心が満たされた。

 ある日、終点で降りると、ケーブル・カーの運転手さんが車体の向きを変える場面に遭遇した。どうやらこの路線のケーブル・カーはバックが出来ないようで、車体を基点のようなところに運んで柄のような長い梃子で回転させるのだが、私たちは運転手さんに懇願して、その梃子を掛け声を合わせながら一緒に回させてもらった。

 あれから34年を経た今では、ケーブル・カーをターン・テーブルに乗せて車体を軽く押せば回転するようになったらしいが、最先端技術を誇るアメリカで、バックができないケーブル・カーが今なお健在というのが何故か可笑しい。

(2) ディズニーランド

ディズニーランドはパック旅行のオプショナルに含まれていたが、自分たちのペースで心ゆくまで堪能したいと友人と私は単独でグレイラインバスでゆく事にした。

イカー中心のロスアンゼルスではバスに乗るのは車が買えないやつという認識でもあるのか、バス停は埃とポリ袋が舞い散るゴミゴミしたところにあり、そこに足を踏み入れた私たちは屯していた若者たちから「ピユー」「ピユー」と口笛で迎えられて足がすくんだが、ともかくバスの席を確保してほっとした。

ここでその時の体験をくどくどと書く必要もないが、1977〜78年頃の日本では大人が遊ぶという概念も場所もなかったから、シルバーグレー(いい年をしたおじしさん、おばあさん)の一団が、買ったばかりのミッキーマウスのシャツに着替え勢揃いしてはしゃいでいる姿を見るのは私にとって驚きだった。

広いので待ち時間の心配もなく、冒険の島を始めとするいくつものアトラクションに興奮しているうちに日が沈み始め、名残惜しくゲートを後にするしかなかったが、翌年のGWに再び訪れた事からも、その興奮が半端ではなかったことが窺える。