後白河院と文爛漫(21)公卿も書く(16)『台記』(9)欠ける望

  「通憲(後の信西)対して云わく、小僧の誤なり。謝罪するところを知らず。又云わく、閣下(頼長)の才、千古に恥じず。漢朝を訪うに比類少なし。既に我が朝中古の先達を超える。是の才我が国を過ぐ。深く危惧するところなり。今より以後、経典を学ぶなかれ」

 上の記述は、何かと摂関家の出自を鼻にかける藤原頼長が、天養2年(1145)6月7日に文章の博士として共に朝廷に名をはせたライバルの藤原通憲(後の信西)と論争して打ち負かした気持を『台記』に記したものであるが、それから10年後に生じた近衛帝崩御後白河天皇践祚によって二人の立場は大きく逆転する。

 頼長の引き留めにも拘らず官位に見切りをつけて出家した信西だが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20131118)、その心境を「ぬぎかふる衣の色は名のみして心をそめぬことをしぞ思う」と歌ったように、法体の鳥羽法皇に近侍するには法体の廷臣の方が何かと有利であり、特に触穢(※1)思想が宮廷の故実作法に影響を及ぼして、煩雑になりがちな宮廷行事において能吏の誉れ高い法体の信西鳥羽法皇から大いに重用された事は、仁平3年(1153)12月には法皇から「殊恩」としてかつて法皇の最近臣であった平忠盛が預かり沙汰していた重要な院領の肥前国神崎荘を任されるほどになっていた事からも窺える。

 さらに、信西が生前の鳥羽法皇から葬儀に際しての検知(※2)を承り、かつ、崩御時における喪事は「信西入道の検知する」処であると定め置かれたうえに、法皇遺詔(※3)により選定された入棺役8人の「恩使」にも名を連ねてた事は、単に彼の妻が後白河天皇の乳母であったからというだけでなく、信西自身が鳥羽法皇から篤い信頼を獲得していて後白河天皇践祚法皇に説得するだけの力を備えていたことが分る。

 それに対して、内覧宣旨を賜るほどの信頼を鳥羽法皇から受けていた藤原頼長は、学問で習得した知識をもとに理想の政治を実現させるべく奮闘したかもしれないが、彼の掲げた朝儀の復興・官紀の振粛などの施策はいずれも摂関政治の復興に繋がるものであり、反摂関家の気運が高まる中では空回りせざるを得なかったようだ。

 その上に、美福門院の生家・中納言藤原長実が代表する、成功(じょうごう)という豊富な資財を献じて院政の財政基盤の支え役として急速に台頭した下級貴族の受領上りが形成する院近臣勢力を「諸大夫」侮蔑するだけでなく、あからさまな攻撃を加える頼長の露骨な反院近臣の姿勢は、彼から鳥羽法皇近衛天皇を遠ざけるに充分であった。

 何と言っても頼長の失脚は、後白河天皇践祚の際、兄・忠通の関白再宣旨は下されたが自分の内覧再宣旨が含まれていなかったことに立腹して出仕を拒んだ彼自身に起因する。

 新たな階層として台頭著しい院近臣勢力に対抗するために、本来なら父・兄・弟が団結して摂関家を守るべき時に、これほど醜い内訌を展開すれば、院近臣のみならず宮廷全体に蔓延する反摂関家の気運を巧みに取り込んだ信西によって摂関家が弱体化したのは致し方ない事であった。信西にとっての摂関家は自分の出世を妨げる元凶でしかなかったのだから。

(※1)触穢(しょくえ):死穢・弔喪・産穢・月経などのけがれに触れる事。昔はその際、朝参または神事などを慎んだ。

(※2)検知(けんち):目で見て心にさとる事。実地に検査する事。

(※3)遺詔(いしょう):帝王の遺言。

参考文献は下記の通り

『日記で読む日本中世史』元木泰雄・松薗斉 編著 ミネルヴァ書房

人物叢書 藤原頼長』 橋本義彦 吉川弘文館

『平安貴族社会の研究』 橋本義彦 吉川弘文館