後白河院と文爛漫(20)公卿も書く(15)『台記』(8)欠ける望

  天皇崩御するまで皇嗣が決まらないこと自体が異例だが、崩御の翌日に決定したのが立太子を経ない部屋住みの29歳の壮年天皇践祚と、その息子の親王宣下と同時の立太子というのは甚だ異例であった。

 自分亡き後の美福門院の先行を考慮した鳥羽法皇が、雅仁親王の第一王子・守仁を皇嗣と推す美福門院と関白忠通の意向を受け入れつつあった時、「即位を経ない父親王をさしおいて子の王子が践祚した例はない」と異議を申し立て、先に父の雅仁親王が即位して、継いで守仁王子が践祚するのが順序ではないかと、美福門院も納得する後白河天皇(雅仁親王践祚守仁親王立太子(後に二条天皇)案を示したのは藤原信西であった。


    

(上図は左:二条天皇 右:後白河法皇 『図版天子摂関御影』より)

 忠通と美福門院の共同提案を脇におかせて、後白河天皇践祚鳥羽法皇に奏上した信西こと藤原通憲は、当代きっての文章の博士と称されるほど学問に優れ、慈円が「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と讃えた藤原頼長も兜を脱ぐ程の学識の徒であったが、待賢門院・鳥羽法皇に近侍しながら出自の低さから出世は望めないと官位に見切りをつけて、頼長の引き留めにも拘らず少納言の地位を最後に39歳で出家をして入道信西と称した。

 しかし、結果的にこの出家は信西の野心の隠れ蓑となったようで、法体という世俗を離れた自由な立場で学識を最大限に活用して鳥羽法皇の諮問役を務めるうちに、財力では頼りになるが実務能力や経綸(※1)の才に乏しい受領上がりの院近臣を補う形で法皇に近侍するうちに、没した美福門院の従兄弟の藤原家成に代わって院側近の中心となり、法皇崩御の際には遺命によって葬送を「検知」する立場を得るほど法皇の信頼を勝ち得ていたのである。

 信西が病弱な近衛帝の皇嗣問題が自分を政治の表舞台に押し出す道に繋がると思い始めたのは、彼の後妻の藤原朝子(紀二位)が雅仁親王の乳母であったことから、密かに雅仁親王の即位実現を画策し、本来なら近衛帝践祚に伴い即位の可能性が消滅した時期に出家すべきであった雅仁親王を俗体のままに留めていたのである。

 そして、自分の死後に予想される皇位継承摂関家の内輪もめによる反乱を畏れた鳥羽法皇は、美福門院を後白河天皇の母とする「王家家長」に位置付け、何事も美福門院を中心に関白・大臣以下が心を一つにして支えるように誓わせて結束を固めさせたのだが、この間、藤原忠実・頼長親子は全く蚊帳の外に置かれていただけでなく、「『近衛天皇は呪詛されて崩じたのであり、その呪詛は忠実・頼長親子によるものであると美福門院と関白忠通から聞かされた鳥羽法皇が愛息・近衛帝を哀惜する余りこの二人を憎んでいる』との報を摂関家に仕える藤原親隆から伝えられた」と久寿2年8月27日付『台記』に記したように呪詛事件をでっち上げられたのである。

(※1)経綸(けいりん):国家を治めととのえること。治国済民の方策。

参考文献は以下の通り

『日記で読む日本中世史』元木泰雄・松薗斉 編著 ミネルヴァ書房

人物叢書 藤原頼長』 橋本義彦 吉川弘文館

『平安貴族社会の研究』 橋本義彦 吉川弘文館