後白河院と文爛漫(19)公卿も書く(14)『台記』(7)欠ける望

  前回述べたように近衛帝の后を巡る争いで美福門院と組んで頼長を出し抜いた忠通は、近衛帝の後継を巡って再び美福門院と組むことになる。

 頼長の『台記』の仁平3年(1153)9月23日付は、関白忠通が眼病悪化を憂えて雅仁親王後白河天皇)の王子(後の守仁親王二条天皇)への譲位を望む近衛帝の意向を鳥羽法皇に奏したところ、法皇は忠通が新たに幼帝を立てて政を専らにしようとしていると疑って退けただけでなく、「朕と子(近衛帝)即世せば天下将に乱れんとす、嗚呼哀しき哉」と前関白忠実に嘆いた事が記されているが、このことは、生来病弱の近衛帝の病状が悪化して天皇の周辺が皇嗣(※1)を急いでいた状況を物語っている。

 『台記』の記述で注目すべき第1点はこの時点での鳥羽法皇は忠実・頼長と忠通のいずれにも肩入れしていなかったという事、そして第2点は、近衛帝の皇嗣として法皇が「天子の器ではない」と酷評した雅仁親王の第一王子の名前が具体的に挙がった事である。

  

(上図は頼長(左)と忠通(右)「図版 公家列影図」より )

 それでは何故雅仁親王の王子か。美福門院得子を寵愛する鳥羽法皇は得子腹の近衛帝を践祚した時点で今後の皇統は近衛帝の子孫と決め、ぎりぎりまで皇子誕生を期待したため結果的に崩御するまで皇嗣を決定することが出来なかったとされる。

 他方で近衛帝の生来の病弱を懸念していた美福門院は皇子誕生を得ないまま崩御する事も視野に入れて、当時もっとも皇位継承に近かった崇徳上皇の第一皇子重仁を誕生直後に養子とし、さらに、雅仁親王第一王子の守仁は生後直後に母を亡くした事から美福門院に養育されることになったと『台記』は伝えている。

 当時の世情は近衛帝の皇嗣として最もふさわしいのは重仁親王と見ていたが、自分の腹を痛めた近衛の即位に伴って譲位させられた崇徳天皇の生母・待賢門院の権勢が見る見る衰え、傍から見ても痛々しい境遇に追いやられた事を知る美福門院が、重仁親王践祚崇徳上皇院政に繋がり、鳥羽法皇亡き後の自分に大きな逆風となると考えたのは当然である。

 そこで、近衛帝の皇子が望めなくなった時点で美福門院が皇嗣として思い定めたのが雅仁親王の王子(守仁親王)であり、そこに日頃から関白として近衛帝と美福門院に近侍していた忠通が、自らの窮状を打開する上で美福門院と連携した方が得策と判断して、母の気持ちを忖度する近衛帝の口上として美福門院の皇嗣案を鳥羽法皇に上奏したのである。

 それから2年後の久寿2年(1155)7月23日に近衛帝は17歳の若さで崩御され、翌7月24日に美福門院の望む守仁親王は皇太子に立てられたが、践祚したのは誰も予測する事のなかった29歳の雅仁親王、すなわち後白河天皇であった。

(※1)皇嗣(こうし):天皇の世嗣、または皇位継承の第一順位にある者。
 

参考文献は以下の通り

『日記で読む日本中世史』元木泰雄・松薗斉 編著 ミネルヴァ書房

人物叢書 藤原頼長』 橋本義彦 吉川弘文館