後白河院と寺社勢力(127)遁世僧(48)法然(21)皇女も遊女

 下図は『法然上人絵伝』の中でも最も艶やかな場面である。朝廷から流罪を命じられた法然一行の船が配流地讃岐への途次に播磨国の室の津に着いた時、当地で最も売れっ子と評判の遊女が小舟で近づき、「私は苦界に身を沈めて春をひさぐ生業。このような者が如何にしたら後世で救われるでしようか」と悲痛な表情で法然に訴える。


(『法然上人絵伝 中』より) 

 この訴えに対して法然は「色欲に溺れる男相手の生業は、あなたが認めているように罪障は重い。もし他に渡世の道が見出せるなら直ぐにでもこの生業から足を洗うことだ。しかし、それが叶わなくとも、ひたすら念仏を称えればよい。阿弥陀仏はあなたのような罪深い者をこそ救う為に誓いを立てたのですから」と、遊女を力づけている。

 幾多の鎌倉仏教の祖師あるいは名高い遁世僧の中で、春をひさぐ遊女からこのように訴えられたものが法然以外にいたであろうか。私の独断で言わせてもらえば曹洞宗道元、あるいは臨済宗栄西、そして解脱房貞慶にしても、とても遊女どころか女たちが「後世の救い」を求めて必死に訴える相手として近づくとはとうてい思えない。

 現在まで37通が確認されている法然消息文には、尼将軍・北条政子充、鎌倉御家人・大胡三郎の妻宛が含まれていることは先回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)。その他の女性への消息文としては、九条兼実の北の政所充1通、似絵(にせえ)の名人で後白河院の命で知恩院に伝わる「隆信の御影」とよばれる法然上人を描いた藤原隆信http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090904)の嫡男・藤原信実の叔母の女房宛1通、そして、正(承)如房と号する後白河院第三皇女・式子内親王宛の長い返書1通が含まれている。

 この「正如房・・・」の呼びかけで始まる式子内親王宛の法然の返書から、式子内親王が代々親王が門跡を勤めてきた聖道門(※1)を代表する仁和寺に御室を務める守覚法親王という弟が居たにも拘らず法然の浄土宗にに帰依した事(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090817)が判明し、また石丸晶子氏がこの返書から、切ない忍ぶ恋の歌を残した式子内親王の相手が他ならぬ法然であったという大胆な説を唱えた事は既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090829)。

 しかし、ここで強調したい事は、なにゆえ、法然上人の唱えた浄土宗に皇女、女院後鳥羽上皇中宮)、将軍夫人、摂関家北の政所や貴族の女性、関東御家人の妻や遊女といった幅広い女性の帰依者が多かったのかという事である。

 「仏は男」つまり女は成仏できないとされていたのが従来仏教で、インドの女性蔑視の視点とも絡んで女性は三従五障(※2)のさわりがあるために往生・成仏は出来ないとされ、「阿弥陀仏の48願」の第35願においても女性が女性である事を良く思っていないのに、生まれ変わってもまた女性であるのであれば正覚をとらないとしていることを受けて、法然が深く心酔する善導も『観念法門』に「転女成男」において往生するとして、女が女のままでは往生できない事を示している。

 ところが法然は大胆にも「無量寿経」(※3)について著した『無量寿経釈』において、既に弥陀は48願の第18願において男女を区別せず念仏によって平等に往生できると説いているのだから、どうして別に第35願で女性のために誓われる必要があろうか、これまで女性は差別を受けて苦しんできた歴史があるのだから「無量寿経」は女性の苦を救う為に作られたのだ、と、ザクッと大掴みにして「女人往生」を前面に押し出している。そして、後年、九条兼実に請われて著した「選択本願念仏集」では「女人往生」を特別に取上げると差別を強調する事になるからと取り立てては扱っていない。

 中世の入り口にさしかかった今から800年も前に、「男女の差別無く万人平等往生」を掲げた法然の浄土宗の革命性の真骨頂がここにある。

(※1)聖道門(しょうどうもん):自力によって現世において証果を得ようとする教え。特に天台宗真言宗を指す。

(※2)五障(ごしょう):女人の持つ5種のさまたげ、すなわち、梵天皇・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏身となりえないこと。

(※3)無量寿経(むりょうじゅきょう):無量寿阿弥陀)仏の48願と極楽の様子および極楽往生の方法を説いたもの。


参考文献は以下の通り

『念仏の聖者 法然』 中井真孝編 吉川弘文館

法然の手紙〜愛といたわりの言葉』 石丸晶子編訳 人文書院