芭蕉が後期高齢者活躍の手本なら後白河法皇は一体!!

後白河法皇に深い関心を抱き始めて院政期に関する書籍をあれこれ読み漁っているが、びっくりするくらい長生きした人たちがあちこちに記録されている。

代表的なところでは、歌人藤原俊成・定家親子であろう。堀田善衛著「定家明月記私抄」によると、藤原定家の父で後白河法皇の命を受けて「千載和歌集」を撰集した俊成は、建仁3年(1203)に後鳥羽院より九十賀を賜り足腰もままならない状態であったが祝いの席に出席し、その翌年没したとある。

 そして、命令者後鳥羽院と和歌論で意見が合わず、苦労して「新古今和歌集」を撰集した定家自身は、脚気を始めとする病持であるにもかかわらず、激動の時代を鎌倉幕府と渡りをつけて乗り切りながら「和歌の家」を確立し、さらに源氏物語の書写に注力して今の定本となる「定家本源氏物語」を完成させ、仁治2年(1241)に80歳で没している。

 また、後白河法皇の祖父白河法皇検非違使別当(現在の警察庁長官)として仕え、「中御門右大臣」と称された藤原宗忠の私日記「中右記」によると、宗忠に仕えた検非違使の最高齢者に80歳を過ぎている内藤経則がいたという。経則本人は老体の激務の辛さで度々辞職を訴えたにもかかわらず、宗忠は彼が100歳近くで死ぬまで、通常の警察業務に在職させたと記している。(戸田芳実著「中右記 躍動する院政時代の群像」より)。


 
 これらの事から、800年前の80歳、90歳を平均寿命で換算すると、はたして今では何歳ぐらいになるのだろうと思っていたところ、ヒントを与えてくれる格好の記事を見つけた。

 それは、日本経済新聞夕刊「あすへの話題」欄(2009年1月10日)の「後期高齢者は活躍の時」と題する、物理学者・俳人有馬朗人氏の文章である。

 なかなか興味深いので、少し長くなるが、そこから、文章を一部拝借すると、
芭蕉が新風を生んだ41歳とか死去した51歳は、今から見るとどんな年齢に対応するであろうか。そこで、平均寿命を調べてみた。縄文31歳、弥生30歳、古墳31歳、室町33歳、江戸時代に45歳であった。明治には43歳、大正45歳、昭和10年男47歳・女50歳、昭和22年男50歳・女54歳、そして、平成10年には男77歳、女84歳であるという」

 それを踏まえて著者は、人生が平均寿命に比例して変化すると考えてみると、芭蕉の隠棲37歳は現代人の63歳、「古池や」の句を読んだ43歳は73歳に対応し、さらに芭蕉が逝去した51歳は現代人にとって87歳くらいであると導き出し、芭蕉芭蕉らしい俳諧を生み出したのは我々の70歳頃であり、その後盛んに旅に出て名作を発表したと思うと、後期高齢者はまさに最も活躍すべき年代であることを芭蕉が教えてくれているように思える、と結んでおられる。

 そうなると、今から827年前の養和元年(1181)10月に、後に源頼朝を翻弄して執権女房として名を馳せた、寵妃丹後局との間に55歳で内親王をもうけて世間を驚かせた後白河法皇は一体どういうことになるのかい。43歳で出家したにも拘らず。

 そればかりか、元暦元年(1184)の58歳の正月には、木曽義仲に御所を焼き討ちされて幽閉され、西に平家、京に木曽義仲、鎌倉に源頼朝畿内武装して嗷訴を繰り返す延暦寺興福寺の僧兵達と対峙する絶体絶命の危機に直面しながらも、

 建久3年(1192)に腹水病を患いながらも、源頼朝に熱望した征夷大将軍を与えず、「仏教者らしく手は定印を結び、面は巽の方向を向き、顔の下半分は微笑を漂わして」66歳で大往生を遂げた後白河法皇は、室町時代の平均寿命が33歳として現代に当てはめると、「超・超後期高齢者の活躍の見本」とでも称すべきか。