矯めつ眇めつ映画プログラム(10)ジャン・ギャバンのメグレ警視

 定年退職後の楽しみの一つに、好きな作家のミステリー小説を、食事も風呂もそこそこに、翌日の出勤時間を気にしないで心ゆくまで読み耽ることが挙げられる。


 特に私は、ジョルジュ・シムノンメグレ警視シリーズを、30年以上に亘って繰り返し繰り返し読んできた。私のこれまでの読書経験からみて、ミステリー小説で繰り返し読むに耐える作品はそんなに多くない。犯人が分かってしまえば、その本を二度と手にする気がしないのが普通だ。


        
           

 しかし、このシリーズの魅力は、パリ警視庁の殺人課部長のメグレ警視と、彼をパトロンと呼んで慕う部下との羨ましい職場の上下関係、そして家庭における彼とメグレ夫人とのむつましいやりとり、料理上手なメグレ夫人のメニュー(これだけで本が出ている)、パリの街の季節ごとの変化やそこで生きる人たちの描写など、たくさんある。


 このシリーズで特徴的なのは、推理小説でおなじみの指紋や足跡を調べる場面が殆どなく、精々凶器となった拳銃の型を調べるくらいであるが、部下に聞き込みをやらせるのはアリバイ調査のためではなく、被害者の生活、性格、おかれた状況を把握し、メグレ自身が被害者になりきるためである。


 そして何よりも際立っているのは、メグレが被害者になりきって、被害者と被害者を取り巻く人間の心理を嗅いで行く描写である。そして、あるとき突然場面が一転して、物凄い迫力で終局に向かう。舞台展開としては「起承転結」ではなく、能の「序破急」である。どの時点で、一転するか、その過程が、読み返すごとに味わいが増すという不思議な作品だ。


 その魅力的な男、メグレ警視ジャン・ギャバンが演じるというので、映画館に足を運んだ。メグレ警視の生まれ故郷を舞台にした「サン・フィアクル殺人事件」と、原作「メグレ罠を張る」をアレンジした「パリ連続殺人事件」の二作である。


 口が重く、愛用のパイプをくゆらし、厚地のオーバーコートを着込んだジャン・ギャバンが、パリの街にしっくり溶け込んでいたことがメグレにぴったりだったと思う。特に「パリ連続殺人事件」の背景となったモンマルトルのゴミゴミとした街並と、そこで暮らす人たちの描写が生き生きとして素晴らしかった(写真はプログラムから)。