芸術のパトロン後白河院(下)絵巻物 「院政期の絵画」展から

 日本の歴史上後白河院ほど毀誉褒貶の激しい人物は見当たらない。

 十代の半ばから日がな一日今様を歌い暮らし、三度も喉を潰しながらも「今様狂い」と称されるほどの遊び人となり、父の鳥羽上皇からは「目に余る道楽者にて天皇の器量にはあらず」、兄の崇徳上皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評されてながら、本人の与り知らない権力闘争に巻き込まれて29歳で天皇に即位し、さらには、側近中の側近の藤原信西を「和漢に比類なき暗主である」とウンザリさせた逸話は有名である。

 たしかに、後白河院は、天皇即位時は暗主であったかもしれないが、三年後に譲位して二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と五代の天皇の上に院政を敷き、平清盛木曽義仲の二人から幽閉され二度も自らの生命を危機にさらながら、武士集団から朝廷を守り、66歳で崩御する頃には、源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わせている。

 その後白河院は、34回に亘る熊野御幸、43歳の出家時には園城寺三井寺)で受戒、翌年は東大寺で受戒、さらに数年後には延暦寺で受戒し、その後も法然上人から受戒して、仏教への信仰心が際立って深く、当時の君主としては稀な、かなり自由な姿勢で新しい仏教会の動きにも受け止めていたと言われる。

 しかし私には、後白河院のその並外れた信仰心は、自らの天皇即位が引金となって保元・平治の乱を引き起こした結果兄や多くの寵臣を失い、そして源平との争いを通して、息子や孫天皇を犠牲にせざるを得なかったばかりか、多くの京都民を戦乱に巻き込んでしまった苦悩や罪悪感から発しているのではないかと思える。

 ところで、絵巻物は平安時代に開花した分野で、白河院鳥羽院時代には「源氏物語絵巻」のように宮廷生活が中心に描かれていたが、後白河院の時代からは、一般庶民が活き活きとした躍動感を伴って描かれるようになった。度重なる熊野御幸や耽溺した今様を通して流浪の芸人や庶民と間近に接したからであろうか。

 以下は、後白河院の指示によって生まれた、最も勝れた絵巻物といわれる「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」「粉河寺縁起絵巻」を紹介したい。全て「院政期の絵画」カタログより

(1)国宝 信貴山縁起絵巻(飛倉巻・尼公巻)と部分拡大図 奈良・朝護孫子寺

 信貴山で修行を積む僧が、食糧を得る為に山里の徳人の所に鉢を飛ばせたが、倉の中に鉢が置き忘れられ、その後、その鉢が倉ごと信貴山まで運んでくるという、有名な説話を元に、信仰の霊験あらたかさを描いた作品といわれる。美術の授業で習った時に沢山の俵が空を飛ぶのが印象的だった。


       


       

(2)国宝 伴大納言絵巻(上巻)と部分拡大図 東京・出光美術館

この作品は貞観8年(866)に起こった「応天門の変」がモチーフになっている。「応天門の変」とは、伴善男が応天門放火の濡れ衣を政敵である源信に着せ、摂関家藤原良房清和天皇を巻き込む大事件となったが、やがて子供の喧嘩から真相が明らかとなり、伴善男の悪事は露見して事件が解決する。後白河院は病草紙を描いた宮廷絵師の常盤光長にこの作品を描かせたと伝えられている。


       


       

(3)国宝 粉河寺縁起絵巻 和歌山・粉河寺蔵

 この作品は、紀州粉河寺の本尊千手観音像の造立の由来と、河内の長者の娘の病を治すという本尊が顕した霊験の二話からなり、安元元年(1176)に、後白河院が蓮華法院(三十三間堂)に造営した小千手堂の本尊が、粉河寺本尊の残材を用いて造立去れたことを受け、後白河院の指示によって製作された作品といわれている。