後白河院と待賢門院〜今様上手「神崎のかね」を貸し借りする母と子(

後世に「権謀策術に長けた日本のマキャベリ」と悪し様に言われる後白河院であるが、女たちとの交流においては、全く別の素顔が浮かび上がってくる。そこで、後白河院と幾人かの女達とのつきあいを取り上げてみたい。

先ずは生母であり、院の今様狂いの土台を作ったと言われる待賢門院であるが、女院については既に「後白河院の母にして西行の永遠のマドンナ『待賢門院鋤`子の生涯』」で詳しく述べているので下記サイトを見ていただくとして、
Mixi http://mixi.jp/view_diary.pl?id=533001457&owner_id=87871
隠居Journal http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20071117

ここでは、夫の鳥羽上皇が、年若い美福門院得子を寵愛し、二人の間の息子近衛天皇が即位するに至って、待賢門院が侘しく女院御所で息子と今様にいそしむ情景を、「梁塵秘抄口伝集 巻十」から紹介したい。


 「そのかみ、十余歳の時より今にいたるまで、今様を好みて怠ることなし」に始まって、自らの今様狂いを赤裸々に披瀝する「梁塵秘抄 口伝集 巻第十」は、後白河院人間性を知る上で格好の自伝といえる。

少し長くなるが、味わい深い文章なので原文のまま院の今様狂いぶりの一端を紹介すると、

 「遅々たる春の日は、枝に開けて庭に散る花を見、鶯の鳴き郭公の語らふ声にもその心を得、粛々たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、夏は暑く冬は寒きをかへりみず、四季につけて折を嫌はず、昼は終日うたひ暮らし、夜は終夜うたひ明かさぬ夜はなかりき。夜は明くれど、戸蔀をあけずして、日出づるを忘れ、日高くなるを知らず、その声を止まず。おほかた夜昼を分かず、日を過ごし、月を送りき」
と、一年中、一日中、ひねもす、今様を謳い暮らし、挙句に、

「声を破ること三ヶ度なり。あまり責めしかば、喉腫れて、湯水かよひしも術なかりしかど、構えてうたひ出しき」
と、喉が腫れて湯水も通らなくなったがそれでも工夫をして謳い、

「あるひは、七、八、五十日、もしくは百日の歌などはじめてのち、千日の歌もうたひ徹してき。昼は歌はぬ時もありしかど、夜はうたひ明かさぬ夜はなかりき」
と、元服皇位継承の道を断たれても出家もせず、母の御所で部屋住みしながら、「遊芸の皇子」と揶揄されて今様を謳い暮らす雅仁親王後白河院)。