前回述べたように近衛帝の后を巡る争いで美福門院と組んで頼長を出し抜いた忠通は、近衛帝の後継を巡って再び美福門院と組むことになる。 頼長の『台記』の仁平3年(1153)9月23日付は、関白忠通が眼病悪化を憂えて雅仁親王(後白河天皇)の王子(後…
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